日本のお香の歴史は仏教伝来と共に始まりました。
各時代と共に現代までお香の歴史をざっくりと見て行きましょう。
◇飛鳥時代
538年頃に百済よりインド、中国、朝鮮半島を経て日本に仏教が伝来したと聖徳太子の伝記である「上宮聖徳法王帝説」に記載があり、それと共にお香が伝わったとされています。
日本のお香についての最古の記述は「日本書紀」にあり、推古天皇の三年(595年)に『沈水、淡路島に漂着。その大きさ一囲。島の人、沈水をしらずして、薪に交てて竈に焼く。その烟気遠く薫。則ち異なりとして之を献る。』とされています。
◇奈良時代
天平勝宝5年(753年)に鑑真和上が中国の唐から5度にわたる渡船の失敗のすへ、6度目にして日本へ渡って来ました。この鑑真和上によって、建築や美術、医学、仏教の戒律と共にお香の調香技術が伝わったと言い伝えられています。そして、調合技術として伝わったものは、焼香や塗香など仏教で使われるものと、薬として伝わった丸薬状の練香だと考えられています。
◇平安時代
平安貴族の間で、練香が”空薫物”と呼ばれ、お香が趣味として親しまれるようになりました。
空薫物は、部屋や衣類、髪の毛に香りを焚きしめて使用され、やがて貴族の嗜みとしてお互いに独自に調合した香りを披露する中で、”薫物合わせ”という香りの優劣を競う遊びが流行りました。
他にも、”歌合”や”絵合”などさまざまなものを比較して優劣を競う”あわせもの”が行われていました。
文献としては紫式部の書いた「源氏物語」や清少納言の「枕草子」に空薫物の事が出てきます。
「六種の薫物」と言われる代表的な6種類の薫物があり、当時の調合が「薫集類抄」という書物に記載されて残っています。
◇鎌倉時代~安土桃山時代
この時代から質のよい香木が多く日本へ入るようになったとされています。
それが分かるのが、「太平記 巻三十九」にある佐々木道誉と言う人物の話しです。そこには、花見の際に一斤(約600g)程の香木を一度に焚き上げたと記述が残っています。
佐々木道誉は香木のコレクターで、180種類程の香木が足利義政に渡り、香道の誕生に大きく関わっています。
この時期には、香木のみを焚く聞香が始まり、闘香や香道の最も基本的な遊びである組香の十炷香が生まれました。
聞香に使用する銀葉などの道具も中国から入っていたと考えられます。
室町時代後期に、東山文化の立役者である八代将軍足利義政により香道が誕生します。それは、足利義政の膨大な香木のコレクションを三条西実隆や志野宗信に整理をさせる中で「六国」と言う分類規準に繋がる考えが生まれたとも言われています。
この際に、”六十一種名香”と呼ばれる香道における手本となる手鏡香が選定されました。
それにより、三條西実隆公を開祖とする公家の御家流と志野宗信を開祖とする武家の志野流の二大流派が生まれ、流派に沿った聞香の様式やそれにそった日本独特の香道具もつくられ、香文化が栄えて行きました。
また、室町時代の後期に書かれたとされる「七十一番職人歌合」の六十番に薫物売りについての絵と説明が残っており、お香の販売が市場で行われるようになったことが窺えます。
◇江戸時代
江戸幕府初代将軍の徳川家康はお香のレシピを「香合等覚書」に残したり、ベトナムなど沈香の産地に良質の伽羅や沈香を求める書状を贈るなど、寛永文化により公家の文化が広がりを見せる中、空薫物や聞香などのお香の文化が広がって行きます。
そして、大名の娘の婚礼品の中に香道具も含まれるようにもなりました。
また、公家や武士、僧侶の中で使われていたお香が、一般庶民に普及していきます。
当時書かれた様々な書物の中で伽羅と言う単語が良く出てきており、庶民の間にまで浸透していたことが分かります。ただ、当時でも貴重であった本物の伽羅が焚かれていたのかは定かではありません。
更に多くの香木が海外から輸入されるようになる中で、米川常白が香木の香りの表現に”五味(酸・苦・甘・辛・鹹)”を用い始めました。また、それまで幾通りかあった香木の分類が整理され”六国(伽羅・羅国・真南蛮・真那伽・佐曽羅・寸門陀羅)”に納まり、香道の「六国五味」が現在の形へとなりました。
それは、米川常白の「六国列香之辨」に記され、現在でも香道の香木鑑定方法を学ぶ”六国五味伝”の中に受け継がれています。
そして、香道の流派も御家流、志野流以外にも様々な流派が生まれていたほどです。
また、香木以外の香料も多く輸入されており、女性の使う化粧品類にも白檀や丁子、龍脳、麝香などが使われていたほどです。
ほかにも、線香も江戸の始めに日本に伝わりました。
長崎では、西川如見の「長崎夜話草」に五島一官が中国より製法を学び長崎で製造するようになったとあり、竹の芯を使った竹線香が作られるようになりました。
また、同時期に大阪の堺でも中国から線香の製造方法が伝わり一般的(竹の芯を使わない)な線香が作られるようになったと言われています。
そして、江戸の終わりに堺から伝わった線香製造の技術をもとに、淡路島でも線香の製造がはじまりました。
それまで、線香は海外より仕入れていたものが売られていましたが、需要に合わせて国内での製造が増えました。
これは、江戸幕府のキリスト教の信仰禁止によるによる、仏教の檀家制度施行の末に、庶民への仏壇義務化の中で生まれた需要によるものと考えられます。
◇明治時代~大正時代
文明開化により西洋の文化がはいってきたことにより、日本の文化が衰退するとともに香道も衰退の一歩をたどります。
ただ、武家社会も終わり農民も土地を持つようになるなど、時代の変化と共に、仏事による線香の需要は増し、線香の製造に適した淡路島での製造が増していきます。
◇昭和時代~令和時代(現代)
昭和の終わりから良質の沈香が大量に日本に入るようになります。
技術の進歩や民間での飛行機の利用増加、国際化など様々な大きな変化により、沈香がお金になることが分かった人たちが、沈香の取れる産地で乱伐採を行うようになりました。
そのため、上質な沈香が大量に市場に出回り、昭和の終わり頃から日本の経済成長と合わさった中で日本に沈香や伽羅、白檀などが大量に輸入されるようになりました。
そして、沈香が乱伐採を繰り返される中でワシントン条約の対象となりました。
また、白檀も乱伐採によりインド政府の管理下に置かれ、白檀の輸出が制限されるようになりました。
これにより、沈香や白檀は栽培がおこなわれるようになります。
平成の最初の頃にお線香の需要も最盛期を迎えますが、時代の変化により国民の無宗教化や仏壇の需要の減少など様々な要因から仏事のお香の使用が徐々に減少して行きます。
そして、ルームフラグレンスとしてお香が一般的に使われるようになり、様々な合成香料や精油などを使ったお線香が多く作られるようになりました。
取りつくされ殆どなくなってしまった沈香や伽羅の価格が平成の終わりごろから高騰して行きます。
歴史と共に需要にあった形でお香が変化してゆきます。
現代には様々な技術が生まれる中でお香も進化し続けています。



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